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三谷晃一が亡き太田博に捧げる

慟哭の追悼詩

​戦死公報に涙する

  摩文仁の空は晴れて

  硝煙は遠退いた

  舞臺の暗轉だ

  疎林から新しい斧のひゞきがきこえる

  獵師が通る 商人がとほる

  子供を抱いた女も通る

  あれもどこかでみた顔だ

  あの聲もどこかで聞いた聲だ

  舞臺は變ったが人は變らない

  けれどどうしたわけか

  あなただけが現れない

  待ってもまっても現れない

  そこの城壁の崩れのかげにも

  奇妙な琉球王の墳墓のかたはらにも

  あなたの笑ひはきかれない

  摩文仁の空は晴れて

  硝煙はむかふの海に遠退いた

           1947.9.24

​「蒼空」昭和22年十月 故同人追悼號

三谷晃一編集 詩誌「蒼空」太田博追悼號

三谷晃一編集 「蒼空」昭和22年十月 故太田博追悼號

追 悼 文

                         

     谷 玲之介について

   ​          三 谷 晃 一

いまの公報が杜撰であるといふことはわれわれにある慰めをあたへる。なきが らをみるまでは納得できないといふほどの愚か さは誰にでもあるのであらう。最後に遇ったのは十七年の一月三日、岡兄宅の送 別會の席上だが、谷兄の印象が現在もなほいきいきと鮮明なのは、耳についたあ の哄笑を思ひ出すせいであらうか。復員してきてから、谷兄のことが語られると きにはかならず「愉快だった」とか「面白かった」とかいふ回想の聲がきかれる。 彼には生得のユーモアがあった。「ボーイヅ、ビー、アンビシャス!」、石月さん の表現を借りれば「大きい聲を出して街をあたかもカマキリの如く怪異な容貌 を少し上向きにして下駄をひきずって飄々と歩いた。」そのやうに彼の天稟はど こでも、どんな閉された領域にも飄々と融通無碍に歩いていった。僕はいま彼の 歩き方に裏返しされた彼の世界を讀むのである。そこに無量の悲痛も可能であ るやうな魂に裏うちされた世界を讀むのである。天稟といふのはそんな歩き方 にだけ許される言葉だ、 追悼記などとは所詮のこった者のみにくさを露出する場にしか過ぎないだら う。僕はただ新らしい、詩をかく人達に、彼のやうな詩人がゐたといふことを思 って貰ひたかっただけなのだ。いまは過ぎ去った苦患の時間を。そこを貫いた一 つの意志を。またヒューマニテイーを。まだ、かつて街々を覆った硝煙がすっか り晴れ上ったといふわけではない。屋根々々の汚れは拭きとられずに殘り、記憶 はしばしば生活の隙間から秋風の音を立ててゐる。殘された者らにまたいつも の夕暮がやってくる。

   三谷晃一と太田博

 

三谷晃一が郡山商業学校に入学した昭和10年、2級上の上級生に文芸活動に打ち込む太田博が在学していた。同時期OBで中央の文芸誌「蝋人形に」に投稿していた西山安吉(丘灯至夫)に惹かれて、二人は詩作の道へと進んでいった。太田博の純粋さと詩作への強い意思を受けとめ、二人は競うように切磋琢磨し詩人としての道を切り開いていった。太田博が銀行員となって二年目、三谷は最高学年の五年生となり、太田の協力のもとに手刷りの詩集「北方」を発刊した。同誌は翌昭和15年に三谷の北海道「小樽高等商業学校」への進学とともに第四号で終刊となった。しかし、詩作を通じての青春時代前期の太田博との5年間の交流は、二人の間に強い心の絆を織り上げていた。

戦争への潮流の中で、昭和17年太田博は1月に軍隊に入隊し三谷晃一は同年12月に徴兵された。二人が詩作で語り合う機会は永遠に去って行った。昭和22年、前年復員した三谷晃一は太田博の生存を祈っていた、しかし7月に届いたのは沖縄で戦死したとの公報であった。戦争というそれぞれの過酷な環境のなかでも、後に太田博が二人の共通の目標である詩人としての生き方を貫徹したことを知った。

沖縄摩文仁の丘に祈る

(悼詩)

おう おう 遅かった なにもかも遅かった

     みんな みんなあとからの思案だ

   あの時 くらい夜空に向かって

   「星よ 滴りおちよ」と歌ったひとよ

​    

   さようなら さようなら

   左が太平洋 右が東シナ海

​   いまその真ん中に 滴りやまぬ

真昼の星。

             (また)​

   暑き日の 摩文仁の丘を 尋ね来て

    蒼天仰ぐ 虚しさや

​     きみの名刻む 礎(いし)の冷たき  

​「銀河詩手帖」平成13年6月号

沖縄摩文仁の丘に刻字された太田博の文字

沖縄「平和の礎」太田博の刻字
​左から6欄目、下から8行目

三谷晃一の画像

 三谷晃一 
2005年没

詩誌「蒼空」郡山支部 西條八十 丘灯至夫 三谷晃一 太田博

西條八十を迎えて 前列中央に丘灯至夫、​左に西條八十、右に三谷晃一と太田博

追 悼 文

       

​  真昼・星の滴る地で                                                                         三 谷 晃 一

平成12年 秋の一日 沖縄摩文仁の丘を訪ねた。古い詩友 故・陸軍少尉太田博の墓参のためである。 ・・まず、事実のみを要約する。 詩人太田博は、昭和20年6月、高射砲隊の指揮小隊長として米戦車群と激闘 の末、沖縄糸満市伊原で戦死する。戦死の時期は不明だが、伊原が戦場となるの は沖縄戦の最終段階なので、そのように推定するのである。(沖縄戦は6月23 日に集結する) これより先、陣地構築作業を通じて、沖縄師範女子部、同第一女学校生徒と太田のあいだに交流が生まれ、両校合同の学芸会に招かれた太田は、その返礼に 「相思樹の歌」を送った。相思樹は、 校門に続く並木道を彩る南国の花「アカシア」の別名である。歌は芸大出の若き教師東風平(こちんだ)恵位氏によって作曲され、最後まで彼女たちの愛唱歌と なるが、のちに『ひめゆり部隊の歌』とされたのがこの歌である。看護要員として軍に協力した彼女らの生き残り百数十名は、追い詰められた最後の壕内で米軍の毒ガス弾により全員死亡する。東風平氏ら引率教員も同様の運命であった。 太田さんと私は呼びたい。彼は同じ学校で私の2級上であった。当時上下の区 別はうるさく、道で会えば必ず敬礼をさせられるしきたりだったが、彼はほとん ど同級生のように私を扱い、深夜まで詩を語り合ったこともしばしばだった。入隊後の彼の消息は知らない。(私が間もなく戦場に送られたためである)戦中、同窓の下に送られて来た数冊の詩ノートが唯一の形見となった。 その中に私の視線を釘付けにした一行がある。

『星よ、滴り落ちよ、と幼い声 を放つ。』「幼い声」とはつまり母を慕う幼子の声の謂れであろうか。 摩文仁の丘には墓苑、平和の礎(いしじ)、隣接する伊原にひめゆり祈念館が ある。

(祈念館)事務長が二階奥の別室に私を案内し、書庫に安置されている太田さんの遺影に対面させてくれた。一別以来、実に60年ぶりである、沖縄では長いこ と太田博がなにものであるかが知られなかった。ここではいつも「相思樹の歌」 が流されている。

(墓苑)仲間が十八万人 堅固なトーチカみたいな巨大な石の棺におさまっている 心の中で呼びかけた ―そんなに固く鎧わなくとも戦争はもう終わったのだよ

(「平和の礎」)米兵も含めた20万人の墓碑銘がある。一人で行ったら途方に暮 れそうな広大な敷地だが  身内に二人戦死者がいるというタクシーの運転手が先に立ってすぐに太田さんの名を見つけ出してくれた。ハイビスカスの赤い花が至るところに咲いていて これがつまり南国の彼岸花であろうかとおも われた  敷石の上にどっかりと腰を下ろし しばらくその名をみつめた  十月 というのに気温は三十度 目尻を汗だか涙だかわからぬものが頬を伝って落ちた

三谷晃一と太田博

三谷晃一は太田博のために二度の追悼文と献詩をささげている。

​ 昭和22年10月 詩誌「蒼空」故同人

          追悼號を編集発刊

​ 平成12年10月 沖縄「平和の礎」

          慰霊の旅

三谷晃一は太田博の詩を引用して、次の詩作を発表している。

  A「断章」 ”来たらざるひとに”

  A「地上」 ”未だ光は来らざるか”                                                                                                          

  B「悼詩」 ”星よ 滴りおちよ歌ったひとよ”

​太田博の遺作詩集『剣と花』の、A「生まれざる眠りより」、B「星夜」の詩文からの引用である。

詩碑建立寄付者御芳名.JPG

添付ファイルa:「詩碑建立寄付者御芳名」

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添付ファイルb・企画展「三谷晃一展」表紙

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添付ファイルc・企画展「三谷晃一展」表紙うら

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添付ファイルd・企画展「三谷晃一展」表紙

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添付ファイルe・随筆集「囀声塵語」「竹さゝゝ」

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添付ファイルf:伊藤和氏「あとがきにかえて」①

添付ファイルg:伊藤和氏「あとがきにかえて」②

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添付ファイルh:「刊行編集委員会」「刊行呼びかけ人」

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